延坪島から仁川港に脱出してくる人々や島の防空壕で身を寄り添って避難している人々の映像を見ながら、平和な社会で暮らせるありがたさを痛感させられる。平和の尊さを確信させられる。日常の空気のような当然のもの、けれども、それはすぐに壊れる。失われる。弱者である庶民は、家を焼かれる。防空壕に押し込められる。難民になる。国家が起こす戦争によって、庶民は日常の生活と幸福を奪われ、砲弾が頭上に降り落ちる戦場の中に放り出される。今回、李明博政権には本当に過失責任はなかったと言えるのだろうか。国民の生命と財産を守る安全保障の観点から、韓国側には何も問題がなかったと言えるだろうか。国家の防衛責務を万全に果たしていたのだろうか。無論、非は全面的に北朝鮮の側にある。休戦協定違反は明白で、一般市民の居住地域への砲撃は言語道断の非人道的蛮行だ。だが、盧武鉉政権のときはこうした事態は起きなかった。国民の生命と財産を守った。韓国の国防相は、「事前に緻密に計画された意図的な奇襲」と発表している。であったのならば、参謀本部はなぜ事前にその「計画」を諜報探知できなかったのか。青瓦台はその徴候を感知予測できなかったのか。情報収集と危機管理ができなかったのか。平和を守るということ、安全を保障するということは、実はそういうことである。金大中や盧武鉉は安全保障に周到で秀逸だった。敵国と冷戦状態にある場合、まさに対話こそが最大の安全保障なのだ。