記事のコメント欄に次の真摯な問題提起があった。「この事件がもし高度成長期に起こったならば、人々の反応はもっと違ったものになっていたと思います。こんな宗教のように『Oさん可哀想』を呪文のようにとなえることはなかったでしょう。ブログ筆者さんがおっしゃるように『再魔術化』が起こっているのだと私も思います。どうして『再魔術化』が起こってしまったのか。私は本当に知りたいです。今のままだと日本は、日本人は駄目になってしまうと思うからです」。このコメントを読んで、しばらくの時間、心が固まって立ち竦む感じになった。この意見に私も同感だ。そして、この問いにどう答えようかと息を詰めて考えた。小保方晴子の事件を追いながら、思い浮かぶことが幾つかあった。命を賭けてソフィストと闘い、知の意味を説いて残した
ソクラテスの倫理思想。法律と科学の知識が縦横に駆使された、全盛期の立花隆の鋭いジャーナリズム。「白い巨塔」「運命の人」等の作品で山崎豊子が描いた、骨太で透徹した社会ドラマと人間の真実。ノスタルジーとして、欠乏と不足として、対置すべき珠玉の契機として、象徴的に想起される。そこからさらに、連想はどんどん弾みをつけて滑走し、関連を暗喩する新しいモメントが思考に立ち現れ、この問題の本質的意味を解く着想(仮説)へと繋がっていく。今日は3点、新しい論点を書きたい。第一は、振り込め詐欺であり、第二は、「人にやさしい」社会であり、第三は、光市母子殺害事件である。