辺見庸はこう言っている。「ことばを理解するためには、あるいはことばを発するためには、少なくとも、自分からなにももちだしなしでやろうという、そんなぶったくり根性は許されない。自分が傷つくことなしに、あるいは他者を傷つけることなしに、ことばを内面に出したり入れたりするということはできない。安直すぎて、結局、自分が荒んでいく」(『しのびよる破局』P.148-149)。共感する。そのとおりだと思う。傷つく恐怖を超えて、自分のことを人前に絞り出す勇気がなければ、言葉を発して人の心に響かせることはできない。けれども、傷つくことは怖く、ありのままの自分を偽りなく表現することはとても難しく、だから、一言も発せず、立ち往生して沈黙することを余儀なくされてしまう。辺見庸の言葉が浸みわたって響くのは、手触り感があるのは、傷ついている辺見庸自身の身体と精神がそのまま見事に表現されているからである。現代という時代が人の心をどれほど荒ませるかを、ボロボロにするかを、自分自身をとおして語り得ていて、しかし、それに抵抗する人間の心があらわされ、ギリギリと責め詰められた究極のところで、言葉がかたちになっているからである。