辺見庸が週刊誌の連載コラムに書いた小論「
裏切りの季節」で、アジサイの花の変色の観察を述べつつ、マスコミや論壇の論者の変節と転向と翼賛を論じたのは、今から9年前、小泉内閣が誕生したときのことだった。そこでは、丸山真男が『
自己内対話』に書きつけたメモの、「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向から始まる」という一文が冒頭に引用されていた。梅雨の季節が近づくと、私の関心領域の中で辺見庸のシェアが高まってくる。曰く、「メディアはここは敢えて花色を変えず、時代の病理を執拗に摘出すべきなのだが、反対に、時代とどこまでも淫らなチークダンスを踊るばかりなのである。民衆意識という社会的土壌の酸性度が異常に高くなったことにたやすく応じて、そこに咲く狂うアジサイならぬマスメディアの徒花が、ためらいもなく、いみじき変北をしてしまったというわけだ」(『
永遠の不服従のために』 P.9)。辺見庸はどうしているのだろう。元気だろうか。一昨日(5/13)、PARC自由学校の今年の
講座の第1回目があり、オリエンテーションを受けるべく足を運んだところ、やや意外な議論を耳にして、面食らいながら、辺見庸やら加藤周一の言葉を思い出すところとなった。「財政再建のためには消費税は上げても仕方ない」、「官僚が悪いという決めつけは間違いで、いい官僚もたくさんいる」。マスコミの論者が執拗に大衆に刷り込んでいるフレーズを、場違いと思えるお茶の水の古いビルの2階の教室で講義され、正直なところ、年甲斐もなく内心の動揺が続いている。