めでたさも 中くらいなり おらが春。
小林一茶が雪深い信濃でそう詠んだのは、文政2年(1819年)、57歳のときの正月だった。51歳で帰郷、長く続いた継母との遺産相続係争にようやく決着をつけ、親子ほど年の差のある若い妻を娶り、信濃で人脈を築いて人生の安住を得つつあった一茶だったが、最初の妻との間に生まれた三男一女が次々と夭逝、その妻にも病気で先立たれ、家族にまつわる不幸は人生の最後まで続いていた。3歳で生母と死別、一茶の不遇はここから始まる。8歳のときに家に入った継母と合わず、15歳で江戸に奉公に出される。俳人となり、諸国を旅し、39歳で故郷に戻るが、帰郷してわずか一か月後に実父が倒れ、看病のかいなく逝ってしまう。作句以上に一茶のライフワークとなった熾烈な遺産相続問題はそこから始まった。後年、芭蕉と蕪村と並び江戸の三大俳人と称された一茶は、当時、すでに俳壇での声望を恣にした名士だったと思われるが、彼の俳句からも、また晩年を語る情報からも、そうした栄光や成功の気配は感じられず、苦難に苛まれ続けた老半生の印象が強い。やはり、家族の絆のあり方が、その人の幸福と不幸を大きく分ける。芭蕉や蕪村と違って、一茶の場合は作品の前に人生と生活があり、不本意と偏屈と反抗の姿がある。今年の正月を迎えて、ふと思い浮かんだのは、中学校の教室で学んだこの句と一茶の晩年の胸中だった。