浜岡停止の政治のあと、次は福島の20ミリシーベルトの問題が争点に浮上すると予想したが、報道を見るかぎり全然そういう状況になっていない。昨日(5/15)は、NHKの
日曜討論で原発事故について各党が論じ合っていたが、福島の児童を避難(疎開)させる件については誰も話題に取り上げなかった。社民も共産も特に要求や提案を出す場面はなく、自民と公明は校庭の土を天地返しにするだけでいいと言っている。20ミリシーベルトの被曝の問題で騒いでいるのは、どうやらネットの中だけの局所的な関心らしい。現地では深刻に受け止められてはいないのか、福島市や郡山市で住民がデモをする動きもない。原発で最も苦しめられているはずの福島県民から、反原発の強い声が上がらないのは不思議な感じがする。デモや集会の市民運動の伝統が弱く、そうした政治を推進する基盤が全くない保守的な土壌なのかもしれないが、歴史を遡れば、明治15年の自由民権運動の福島事件という経験もある。福島で千人とか2千人が示威行動を起こせば、それをマスコミが無視するということはないだろう。広瀬隆の最新刊『
福島原発メルトダウン』(朝日新書)では、冒頭で次のような恐ろしいことが書かれている。「
チェルノブイリ原発事故の1割なら、何が起こるでしょうか。みなさんは、ソ連が崩壊して生まれたロシア、ウクライナ、ベラルーシ3国の被害者数が、どれほどの数かご存知でしょうか」(P.18)。