今日は憲法記念日。昨日(5/2)の朝日の1面に生存権(25条)について記事が出ていた。最近では、憲法は年に1回だけ、5/3に思い出すものらしい。政治もマスコミも、憲法についてすっかり疎遠になり、無関心になり、それを日常空間で議論することがなくなった。憲法は政治の現場で影が薄いものになっている。憲法違反の国の行為や現実を市民や野党が追及する場面がなくなり、国民の意識の中で憲法の意味が消えている。この10年ほど、
民主党の台頭と脱構築主義の影響で、憲法は国家が守るべきもので国民が守るものではないという誤った俗説が浸透するようになった。護憲派がその解釈を積極的に吹聴するようになり、ますます国民の憲法離れを加速させている思想状況にある。この論理は、右からも左からも票が欲しい民主党が、改憲問題を棚上げして「中立」の擬態をとるべく巧妙に開発した詐術だが、それに騙された「9条の会」の末端アクティブなどが、正しい憲法解釈だと信じ込んでネットで声高に宣伝する風景がある。憲法の前文には、何度も「われらは」という主語が登場し、決意や宣誓を言う件がある。この主体は非人格的な「国家」の機関や組織なのだろうか。主権者である国民の主体性を否定する俗流解釈が、市民の憲法への無関心と無責任を誘導し感化する元凶となっている。だが、おそらく、今日の教育現場では、教師は学生にこのように憲法を講義しているのだろう。俗説は定説なのだ。