被災者が11万人も避難所生活を強いられている中で、大義名分のない政局のドラマが盛り上がりつつある。3・11の後、やや気分が落ち着けていたのは、星浩だとか、田崎史郎だとか、浮薄で愚劣な政局屋の面々をテレビで見なくて済むことで、彼らのプロパガンダを聞かずに過ごせる安息な日常を得ていたからだ。津波は有象無象を一掃し、震災後の政治報道で彼らを半失業状態に置き、彼らの存在の無価値を国民に証明していた。そして、「国民一人一人が、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくこと」と訓じた天皇陛下の3/16の言葉が、3・11以降のこの国の暫定憲法として統治していた。われわれはそのプリンシプルに即き、政治と報道の視線は福島と3県の方角を見ていた。被災者の苦難を思いながら、自らを戒めて節電し、原発と電力エネルギーの基礎知識を学んでいた。そういう生活が回っていた。その静穏で反省的な社会の空気が壊されて変わろうとしている。そのことに憤慨と憂鬱を覚える。避難所で暮らす人々が主人公ではなく、永田町の野獣が主人公にカムバックする環境の転換が、私にはどうにも我慢がならない。3・11以前の政治と報道の旧態に戻り、背後に退いていた邪悪な連中が中央の舞台に戻り、3・11以前のコードとプロトコルが復活するのが不愉快だ。天皇陛下の言葉がフェイドアウトする状況変化に苛立ちを覚える。