週刊朝日の記事を読み、ネットのTLを見たときに、これは大丈夫かなという一抹の不安はあった。不安というのは、今回のように朝日が日和り、週刊朝日が白旗を上げる事態である。私は週刊朝日を信用していないから、バッシングに折れて最悪の顛末になる可能性も予想していた。週刊朝日を擁護しようという気は毛頭ない。廃刊でも何でもすればいい。だが、掲載された佐野眞一の文章への評価は変わらない。表現も、方法も、気迫も、橋下徹批判として正鵠を射ている。佐野眞一は、これを週刊誌への連載ではなく、書き下ろしの単行本で発表するべきだったのだろう。結局、後ろから鉄砲を撃たれてしまった。記事中には、被差別部落の所在地を特定している記述があり、この点を論難されて槍玉に上げられるのはコード上やむを得ない。しかし、その瑕疵については訴訟の場で争う等の対処法があったはずで、それを選ばず、早々に橋下徹に対して謝罪するという対応は肯けない。佐野眞一がその方針を承伏したとも思えない。週刊朝日が呆気なく降参したことで、この問題は政治として決着がついた。連載は中止になるだろうし、最早、続けても意味と価値がない。今回の問題は、言論の自由と言葉狩りの問題でもある。今後のことを考えると、朝日の責任はきわめて重い。これは、戦前に擬えば、美濃部達吉の天皇機関説と類似の問題で、ファシズムの暗黒の扉を開く入口の事件だ。