松任谷由実の名曲『海を見ていた午後』、その曲と詞を山本潤子がテレビで説き語る
場面があった。当時から1番の歌詞にある「ソーダ水と貨物船」の表現ばかりが注目され、その絶妙の色彩感と想像力が評判を呼んでいたけれど、ドラマの内実と顛末は2番で説明されている。お上りさんが門前市をなすように
ドルフィン詣でに繰り出していた頃、その列の端に並んで興じていた私は、2番の歌詞に注意を払ったり感動したということがなかった。今回、山本潤子の共感の言葉を聞きながら、あらためて2番に描かれている物語の情景に惹き込まれ、このラブストーリーの時代性の新鮮さに感じ入る。一言で言えば、女の子の心が真面目なのであり、透きとおった純愛の世界があるのだ。ここから13年後に村上春樹の『ノルウェイの森』が売れ、純愛ブームで世間が沸いた季節があったが、このとき懐かしんだものは、きっと2番の
歌詞に登場するような過去であり、一人一人の記憶だったのだろう。あのころ、この曲の1番と2番の展開の妙や詩的完成度に気づかなかったのはどうしてだろうか。それは、自分の若さ未熟さもさりながら、この時代の歌が、こうした言葉が並んで世界を作っていた作品ばかりだったからではないか。新鮮さは、いま強く感じるもので、その当時は、言葉が普通に並んでいただけだった(青春の感傷と未練の)。純粋な愛と心の世界が失われているから、かけがえのない宝石のように感じられるのだ。