辺見庸が、『いま、抗暴のときに』の中で、デモについて次のように書いている。「それにしても、昨今のデモのあんなにも穏やかで秩序に従順な姿、あれは果たして何に由来するのであろうか。あたかも、犬が仰向いて腹を見せ、私どもは絶対にお上に抵抗いたしませんと表明しているようなものである。埴谷雄高は『デモについて』の中で、デモが『自己消費的な惰力』となって本来の目的性を失うことを戒めている。彼はデモの暴走について述べているのだが、このところのデモでは(中略)暴力よりはるか以前の自己消費と自己満足、小さな愉悦のようなものが鼻につく。まったく魅力がないのだ。なぜあそこまで『健全で穏和な市民』を装い、非暴力と無抵抗を誇る必要があるのか」(P.20-21)。「あんなものをデモンストレーションというのなら、私も昨年来、何度か有事法制反対の『デモ』なるものに参加し、かつてとの様変わりに驚き、砂噛む思いどころか鳥肌が立つようなことも経験した。いったいどんな意味があるのか。動物の縫いぐるみをまとった者や看護婦に仮装した男が先頭で踊ったり、造花を道行く人に配ったり、喇叭や太鼓を打ち鳴らしたりという『デモ』もあった。あれが今風なのだといわれても私にはわけがわからない。示威行進のはずなのに、怒りの表現も抗議のそれもさほどではなく、なぜだか奇妙な陽気さを衒う、半端な祭りか仮装行列のようなおもむきのものが少なくなかった」(P.18)。