橋下徹の暴言から2日経った今日(5/15)になって、新聞各社は一斉に非難の社説を上げている。まさに全員が右へ倣えで付和雷同の極致だ。書いている内容もほぼ同じ。この問題に関して短い社説を上げるのに、論説者が何か確認や分析をする作業は要らないだろう。重要なのは、厳しい口調で渾身の筆誅を加えることだ。報道に携わる者としての、もっと言えば、市民としての良識を直截に示すことである。事件が起きた翌日(5/14)に新聞の社説で批判が上がらず、漫然と全員が見逃したことは、まさに痛恨の一時であり、日本のジャーナリズムが機能不全に陥っていることの証左に他ならない。北海道新聞も、琉球新報も、信濃毎日新聞も、中日新聞も、この暴言を黙過した。波紋が広がり、世界中から集中攻撃されるようになった後で、全社が横並びで同じ中身の社説を上げても、それは論説として何の価値もない。この国の真の異常は、5/13の橋下徹の暴言だけでなく、5/13夜と5/14朝のマスコミ論説の沈黙だ。論説者が普通の市民の感性を持っていれば、橋下徹の暴言を目の当たりにして、翌日の社説で黙っているということはできなかったはずである。それは、車にはねられた人を助けず、見て見ぬふりをして立ち去る卑劣な行為と同じだ。問題は、論理ではなく倫理なのである。言葉が重要なのではない。説明や啓蒙ではない。知識の提供ではない。言語道断の拒絶の態度と糾弾の意思を示すことなのだ。