小保方晴子の事件を追いながら、不意に
ソクラテスが思い浮かんだ。今、この問題はテレビのワイドショーで下品に弄くって遊ぶネタになり、タブロイド紙やスポーツ紙や週刊誌が大衆の興味を低劣に擽って売る醜聞になり、研究不正を糺して教訓を得る問題ではなくなっている。アカデミーのあり方を問う問題として議論されない。だが、本来はそうではなく、日本の教育の病状が問われ、科学とは何か、学術研究とは何か、研究者とは何か、それはどうあるべきかが省みられなくてはいけない重大問題なのだろう。今、与えられるべきは、文教科学の指導者の言葉なのだ。戦後の文部大臣、例えば天野貞祐などがいれば、何か言っただろうし、
南原繁や矢内原忠雄がいれば、必ず何かを語ったに違いない。否、湯川秀樹や朝永振一郎が生きていれば、何も言わずに見過ごしているはずはないのだ。賢人の科学者は多くいて、指導的立場の権威や碩学も少なくないのに、ここで肝心な言葉が出て来ない。痴呆なテレビタレントと同列の俗流文化人たちが放つ、無意味な理研叩きと無責任な小保方擁護論でマスコミの論調が染まっている。アカデミーで生息する者たちの危機感の無さに呆れ、絶望させられる。科学者の理性が、世俗を説得し、倫理の大切さを覚醒させるという契機がない。小保方批判を通じて、社会と教育のあり方を問い、アカデミーに反省を促すという場面がない。