最初に、エキサイトによる記事削除の件について説明をしないといけないのだけれど、その前に、この稿は後藤健二の問題について論じる。読者の皆様から、ご心配と励ましのメールを多くいただいていて、この場をお借りして感謝と御礼を申し上げたい。一人一人に返信できなくて恐縮だが、Blogを暖かく見守り支えてくれている読者が多くいることに感激し、あらためて勇気づけられた。心配メールの中には、後藤健二への批判はやめた方がいいと親身な助言をしてくれているものもある。その気遣いの忠告が、状況判断として妥当で適切なものだということは私も理解できる。だが、それに従うことは、事件後にこの国で生じている巨大で不気味な同調圧力に屈服することを意味し、事件の真実を探究する思考(denken)を放棄することになる。ファシズムに身を委ねることだ。今、事件を契機に同調圧力という言葉が巷間喋々されている。その意味は、野党やマスコミが、事件に関して安倍晋三を批判したり政府の対策の真相を追及することが、イスラム国に味方する行為になるから手控えよという自粛の要請と傾向を指す。確かに、国会とマスコミにその徴候は看取され、特に民主党議員の腰の引けた国会質疑などが典型なのだが、必ずしもその現象は社会全体を覆っているわけではない。ネット言論の半分は安倍晋三の事件への対応に批判的で、だからこそ同調圧力という言葉が批判的に言われている。