三原順子の「八紘一宇」の事件について、脱構築の思想との関連でもう少し思うところを論じたい。この事件への反応で気になるのは、怒りのなさという問題である。Twを眺め見ながら感じるのは、三原順子への批判に怒りがないことだ。怒っていない。左翼リベラルはこの発言に対して、バカにして嘲笑ってはいるけれど、許せないという怒りを示しておらず、撤回を要求するという態度に出ていない。例えば、斉藤美奈子が3/18に東京新聞に寄せた
論評がある。「歴史のお勉強をサボると、こういう惨事を招くんですね」と書いている。無知ゆえの暴論と失態という捉え方だ。批判はしているが、辛辣な皮肉を言って刺したという軽いタッチとトーンになっている。この斉藤美奈子のコラムに、この事件に対する左翼リベラル全体の反応が代表され集約されているように私には思われる。三原順子の無恥を咎め、非常識な挙動を一蹴してはいるけれど、そこに倫理的な怒りがなく言葉に熱や重さがない。無知と無恥を咎めてはいるが、罪を問うて批難する姿勢を返していない。揶揄して酷評するか、妙な蘊蓄を垂れてネタにしている者が多い。本来、ここで市民が直感しなくてはいけないのは恐怖であり、戦争の恐怖に対する生理的で反射的な拒絶こそが市民の反応であるはずなのだが、それがなく、拒絶と憤激の反発がない。