前回の
記事で、1960年6月15日のデモの参加人数を33万人と書いたが、毎日新聞社刊の「60年安保闘争の時代」を
読むと、この人数は6月18日のもので、樺美智子の合同慰霊祭が東大で行われ、6月19日午前0時に迫った安保自然承認を阻止すべく、民衆が国会前に集まったときの数字だった。「日本政治史上最大規模の国会デモ」(P.129)と書かれている。前日の6月17日、例の新聞3社による共同宣言が出され、岸信介が自衛隊による治安出動を打診していた。このとき、国家公安委員長の石原幹市郎と防衛庁長官の赤城宗徳が反対し、自衛隊の治安出動は頓挫している。産経のサイトに最近載った
記事を読むと、その前日の6月16日、前日の流血デモの衝撃を受けて、岸信介はアイク訪日中止と退陣を決断したと書いている。私は、これは逆で、岸信介が先にアイク訪日中止を決断したのではなく、米国側が日本に中止の意思を伝えたのだろうと推測する。このような重要な日米の外交決定で、現在もそうだが日本側に主導権はない。このときアイゼンハワーはマニラにまで来ていた。産経の記事で面白いのは、アイク訪日を決行すれば、「空港で出迎える昭和天皇に危害が及ぶ恐れさえある」と岸信介が言っている点である。これは、アイク訪日中止を正当化する弁解だが、ひょっとしたら、逆に、
昭和天皇の方が岸信介に「やめとけ」と示唆したのかもしれない。