衆院特別委での法案の強行採決があった7月15日は、岸内閣が55年前に総辞職した日だった。アイク訪日が中止となり、流血の惨事となった混乱の責任をとる形で、岸信介は退陣を余儀なくされ、それ以降、日本の政治の表舞台に出ることはなかった。日本の戦後の保守政治家の場合、総理総裁を降りた後も、何かと政局に登場して口出ししたりする場合が多く、党の最高顧問として名誉職の地位が与えられ、政界で悠々自適の日々を送るものだが、岸信介の場合はやや例外で、徹底的に悪役となり、陽の当たる表に出ない「妖怪」となった。後を継いだ池田勇人は、高度成長の経済政策一直線に突き進み、岸信介の右翼路線を完全転換し、自民党政権を護憲派に旋回させたハト派のシンボルに収まって、後世の者たちから積極的な評価を受けている。だが、60年安保のときは、岸内閣の閣僚の中でも毒々しい強硬派で、自衛隊を治安出動させて市民を武力鎮圧する案の筆頭に立ち、反対して結束する旧内務官僚たち(国家公安委員長、防衛庁事務次官、警察庁長官、警視総監)を説き伏せていた。タカ派の池田勇人が権力を掌中にすると一転してハト派に転じたのは、日本の保守政治家のパターンを示していて、小沢一郎や亀井静香がその類型を引き継いでいる例として検証・確認できるだろう。