大阪の中1男女殺害事件でどうにも苛立ちを覚えるのは、警察の責任を誰も問わないことである。議論はおかしな方向にばかり集中している。ネット右翼は、先週1週間、この事件をネタにして在日叩きの悪罵連呼に狂奔していた。その狂気を咎めるマスコミ論者はなく、ネットでの規制や窘めの動きも全くなかった。左翼リベラル方面では、例によって、子どもの居場所がどうのという問題意識に滑って流れ、社会学的な関心づけでの論議で盛り上がっている。最近の人文社会系の知識や関心は、必ずこうした事件を脱構築の議論の地平にシフトさせ、家庭がどうの、地域コミュニティがどうのというくっちゃべりで終始して、何か正解と結論を得たような気分にさせる。
国家権力の契機が視野に入らない。家庭と地域コミュニティに原因と責任を求め、問題解決もその範疇と視角で考えようとする。藻谷浩介と谷口真由美のテレビでの発言もそうだったし、本田由紀の目線もそうだ。社会科学が脱構築された80年代後半以降、この国の人文社会アカデミーは国家権力を問題にしなくなった。研究と考察の対象から外した。そんな古い関心を持つのは時代遅れの戦後左翼の作法だということで、国家権力を批判する思考態度をドブに捨てた。本来、市民社会の安全を守るのは
警察の役割であり、
警察はその権限と責任を持っている。